無角和種(無角和牛)は日本を代表する「和牛」の1品種。和牛とは、黒毛和種、褐毛和種、日本短角種、無角和種と、その4種同士の交雑種のみを指します。日本では大正9年(1920年)から登録事業が始まり、厳格な基準のもとで管理されています。
国内の和牛の飼育頭数中の比率は、約173万頭のうち、黒毛和種が約170万頭と98%を占め、褐毛和種が約2万頭、日本短角種の約7,000頭、そして無角和種が約200頭(0.01%)。この数字からもわかるように、無角和種は和牛4品種のなかでも圧倒的に希少な存在です。
山口県にて古くから役用牛として畑仕事に用いられてきた在来和牛にアバディーン・アンガス種をかけ合わせて誕生したのが無角和種。大正時代に誕生して以来、昭和30年代から増頭が続き、昭和38年(1963年)には9,790頭に。子牛の取引価格は当時、黒毛和種よりも高値となっていました。
無角和種の歴史は大正時代にさかのぼります。畜牛飼養を奨励していた山口県では、多くの農家で一家に一頭牛が飼われ、役・肉・乳の3用途を兼ねる牛を理想として改良が進められていました。そのような時勢のなか、阿武郡では大正9年(1920年)に畜牛系統登録規定を定め、アバディーン・アンガス種を導入した在来和種の改良を試みます。丸みを帯びた身体で肉付きと肉質が良く、早熟性と飼料の利用性に富んでいるアバディーン・アンガス種の特性が改良上の強みになると見込んでのことでした。結果、将来的に肉用を主とした和牛の1品種となりうると判断され、本格的な改良が始まりました。
大正9年(1920年)、大井村(現在の萩市)が畜産試験場中国支場から「小雀(こがら)号」の借り受けることになりました。小雀は、在来の和牛(島根県仁多郡産)に、輸入したアバディーン・アンガス種をかけ合わせた種雄牛。これが無角和種のルーツとなり、改良を重ね、成果を検証する大会である畜産共進会に参加した牛の多くが入賞するなど評価を集めるようになりました。阿武郡内の繁殖用牛は、昭和7年(1932年)には島を除いてすべてのこの改良品種の牛となっていました。
県内組織で「無角牛」として登録されていた品種は、昭和19年(1944年)に中央畜産会によって全国の和牛の本登録が始まると登録を移し、中央農業会登録審議会によって固定品種と認められ、正式に「無角和種」となりました。
一時は黒毛和種よりも高値で取引され、頭数を増やし、時代を築いた無角和種。しかし、昭和40年(1965年)を過ぎたあたりから消費者の嗜好が霜降り肉へと移行したことや、牛肉の輸入自由化による安価な海外産牛肉の流通が起こり、大変な苦戦を強いられることになります。無角和種は赤身が自慢の肉質で霜降りになりにくい特徴を持ちます。そのため、霜降りになりやすくより高値のつく黒毛和種の飼育へと乗り換える農家が相次いだのです。さらに昭和48年(1973年)のオイルショックを境に頭数減少はさらなる速度で進み、その減少数は年間250頭を超えていたと記録されています。種を絶やさぬようにと守りながらも、現在では約200頭を残すのみとなりました。 しかし、造成100周年を迎えた今、無角和種にも新しい価値が見いだされようとしています。時代の流れのなかで、日本の固有種としての価値が見直され、その希少性、ヘルシーな肉質、地域と共存する飼育の形など、多くの魅力を活かせる可能性が広がっているのです。今、改めて、畜産のあるべき未来の姿を見つめ、無角和種の価値創造に取り組みたいと思います。